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スカートはかぼちゃ ぼる70 ~なつみかんさい~

かんさい@一夜にカナシ

読み物とゲームの最大の差はどこかというと、ユーザーに干渉のしようがあるのがゲームであり、参加できないのが読み物と言われています。

ですが、昔から読み物のでありながら、ゲームだと思っているジャンルが存在します。いわゆる「ミステリー」です。
小説でも漫画でも、ユーザーにいかに考えさせ、推理させるのかがキモで、他のジャンルとは違って、読者参加型となるわけです。
そのため、すぐれたミステリーというのは、すべてのユーザーに対して公平であり、答えを出す糸口は出ている状態でなければならず、問題として難易度は簡単すぎず難しすぎないのというゲームバランスの調整が必要になってくるものです。
なおかつ、カタルシスの部分が、ミステリーを構築するシステムの部分にあるため、文系思考では存外難しいんですよね。あぁいうの。

今日もわいわいと、ゲームの犯人捜しなどをしておりますと、そんなことを思い返していた私なのでした。
ミステリーは難しいなぁと心底思いながら。

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by まりんれいく 2009年02月20日(金)12時15分 編集・削除

 逆説をかいてみます。
ユーザーが本に干渉にできるところは、
行間と行間の空白に余韻を感じたり
自由な想像を入れる間がある事です。

ゲームは目に見える具象的なものに
ライターの表現が縛られますから、差別化のために
視覚的に珍奇な方向へと進むしかなくなる。
余白の美しさ、文章そのものの美しさを
表現するのが難しいので、
ユーザーはその言葉の生み出す、
幻を見る事も操作する事もできない。

具象である水墨画の余白がこの問題を
解決するヒントになるのではないかと思っている。

by なつみかんさい 2009年02月21日(土)01時23分 編集・削除

小説などの「行間」というのは、すべてが受け手側の空想によって形作られます。「廃墟」と書いたとして、どんな廃墟を思い浮かべるのかは、受け手側次第。人によってまったく違うものをイメージします。よく本にのめり込むという人がいますが、正確には本から受けた刺激で空想し、その空想の中にどんどんのめり込んでいくことなのです。いわゆる「ハイファンタジー」なんかは、そのあたりが顕著で、見たことがないものがどんどん頭の中で動いていくのがとても楽しいのです。ナルニアなり、果てしない物語なり、始めて読んだときは、そりゃーもううきうきしたものです。そういう意味で、もっともすばらしい本というのは、読み手の心の中に、物語全体を取り込ませ、読者が勝手に想像を膨らませてしまうようなものなんでしょう。ただ小説だけが特別かというとそういうわけでもなく、今でいうなれば、萌えキャラを同人誌として書いちゃったり、SSを書いちゃったりするようなものですね。あれもキャラを取り込んで、自分の中で動かしているいい例です。これは「行間」ではなく、キャラクターに間を持たせて、そこに空想の入る余地を作る手法なのですね。妄想しやすいキャラと、しにくいキャラがいるのはそのせいです。だからゲームだからって「行間的な物」できないわけじゃないのです――と私見には思う。上で私が書いてる「ミステリー」の話は、「自分の中に取り込んでいいように想像する」というのではなく、「作者の意図がどこにあるのか読み取る」というゲーム的要素があるということです。ユーザーに対して公平でなければならないという点において、そういう色が強いなぁとなんとなーく思ったとか、まぁ、そんな感じの話なんですよ。はい。

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